日本郷友連盟は敗戦後の混沌とした世情の中から誕生した。大東亜戦争敗北後の日本は、荒野と化した国土の中で国民の生活は困窮する一方、占領軍の日本弱体化政策はその精神文化にもおよび、わが国の歴史と伝統は破壊され、醇風美俗は廃れ道義地に落ち、国民精神の荒廃は目を覆うばかりであった。
とりわけ敗戦を背負った軍人への世間の風当たりは強く、国のために一身を捧げた英霊は犬死同然の扱いに曝され、遺族の中には路頭に迷うものもあり、旧兵役関係者の間には「こんなことでは英霊や遺族に申し開きができない」ばかりか「このような有様で日本の再建復興はありうるのか」(連盟十年史)といった憂憤の情が渦巻いていた。
このような世情下、朝鮮戦争が勃発、昭和二六年九月サンフランシスコ講和条約が締結され、翌年四月発効、わが国が占領下の桎梏から開放されると、全国津々浦々に、旧兵役関係者を中心とした種々の戦友団体が、思い思いに名のりを上げ、申し合わせたように、英霊の慰霊顕彰、遺族の援護、護国神社の復元、戦犯者の釈放、海外抑留者の帰還促進などを掲げた世直し運動が起こり、やがてこの動きは全国統一運動への流れとなって、三年後の郷友連盟誕生へとつながって行った。

この表札は、日本郷友連盟70 年の大部分の期間(昭和39(1964)年6 月から令和元(2019)年12 月(新宿区片町3-3-402 に移転)までの55 年間)、連盟本部が置かれていた新宿区若葉1 丁目21 番地の事務所の敷地入口及び玄関ドアーに掲げられていたものである。
第一節 生 成 ―悲願の全国組織誕生―
昭和二十八年、早くもその必要性は痛感されたが、全国統一組織結成への動きは、同年十一月、これに心胆を砕いていた元支那派遣軍総司令官岡村寧次氏が、総理大臣吉田茂氏より、激励(金一封)を受けた頃より、ようやく展開を見せるに到った。
同年十二月、同氏は事実上の世話役となり、旧陸海軍の要人の間を奔走、元帝国在郷軍人会(会長井上幾太郎氏・陸軍大将)や東京都在郷軍人会(会長安藤紀三郎氏・陸軍中将・元内相・国務相)の協力を得て、生れたばかりの戦友諸団体に全国組織の結成を呼びかける一方、その中心的役割を担う組織として、翌昭和二十九年五月、東京および近在の旧兵役関係者や有志を糾合、特に旧将官の間には慎重論もある中、陸軍では元陸軍大臣下村定氏、海軍では元連合艦隊司令長官小沢治三郎氏の歴訪説得が効を奏し、祖国再建と国土防衛を目的とした桜星倶楽部を結成、事務所(日本繊維工業株式会社社長桜内義雄氏の好意による無償提供)を東京銀座の桜田ビル内に発足させた。
困難を極めた事務所の取得の意義は大きく、桜星倶楽部は全国組織の嚆矢となった。
同年六月、神奈川県湯が原に、東京、神奈川、静岡、愛知、奈良、大阪の七団体三十四名の代表が集まり、全国組織結成の必要性を確認するとともにその推進方を桜星倶楽部に一任することを決議(湯が原会議)、ここに名実ともに推進本部となった桜星倶楽部は「旧兵役関係者を中心とする団体結成促進のための連絡斡旋なす」ことを新たに目的に加え、同年十一月、東京虎ノ門共済会館で、三十三都道府県から団体代表等百四十名が参加する全国代表者懇談会を開催した。同懇談会はそのまま第一回日本桜星会準備会に切り替わり、全国大会の速やかな開催を決議した。
その決議に基づき、翌昭和三十年六月五日、同じく虎ノ門共済会館で参加団体三十九代表百九十名による第二回日本桜星会準備会を開き、会名、会則、人事、申し合わせ事項、決議文等の案を決定、翌六日、会場を日比谷公会堂に移し、全国から参集した会員等二千五百名の参加者をもって結成大会を開催し、準備会提案の案件を万場一致で承認採択、ここに悲願の全国組織、日本戦友団体連合会の結成を見るに至った。
日本郷友連盟はこの年をもって誕生元年とする。初代会長には、連盟創設の団結と発展のため、人格高潔の誉れ高かった元関東軍司令官上田謙吉氏が推戴され就任、理事長には実質的な奔走者、岡村寧次氏が副会長兼務で就任した。
尚、この間、同年三月、今日の機関紙「郷友」の前身「桜星」創刊号が発刊されている。
日本戦友団体連合会はその名が示すごとく、地域に密着した自主的活動を主体とする、各地方団体の連合組織であり、組織上、政府の認可団体なるためには、各団体の個別認可に時日を要し、早急にことを進める必要から、翌昭和三十一年五月第二回戦友団体連合会総会で会名を日本郷友連盟に改めることに決し、同年十月正式に総理大臣より「社団法人・日本郷友連盟」として認可された。
なお、連盟はこの際、国民運動団体としてのけじめから,政治意思実現のための組織として「日本郷友政治連盟」を設立した。
第二節 発 展 (一) ―組織の充実と会勢の拡大―
待望久しき郷友連盟の誕生は、多くの人々によって祝福され多方面の関心を呼んだ。
なかでも、その誕生とその後の連盟の様子や活動が、嘗ての侍従武官平田昇氏(連盟副会長、最後の帝国在郷軍事会副会長)を通じて親しく天聴(昭和天皇)に達する機会(御所参内や葉山御用邸へのお招き)もしばしばあり、その御関心一方ならぬ趣は、関係者に深い感銘を与え連盟の名誉とするところであった。
連盟は、組織が軌道に乗った昭和三十二年五月、退任した植田謙吉初代会長の跡をついで理事長の職にあった岡村寧次氏が第二代会長に就任、結成時の熱気をそのままに、その期する理想の実現に向かって邁進した。
同年八月、桜星倶楽部以来行われていた「終戦時の自決烈士顕彰慰霊祭」や「殉国諸霊顕彰慰霊祭」を「大東亜戦争殉国英霊顕彰慰霊祭(於靖国神社)」と改め、郷友連盟会長を実行委員長として開催し得たのは、連盟結成の悲願をその活動で確認する象徴的な出来事であった。
これに先立ち同年五月、会旗、会歌を制定するとともに早くも各支部内に「青少年部」を設置、翌三十三年五月には同じく「婦人部」、三十四年八月には地域支部の外に「国鉄支部」、三十六年四月には「競艇支部」の職域支部(※)を、さらに同年六月に会長の諮問機関として「参与会」を立ち上げるとともに、三十七年五月、会員資格を発足以来の「旧兵役に服したる者」から「連盟の目的趣旨に賛同する者」に改め組織と会勢の拡充を図った。
かくして、三十八都道府県支部二十四万五千名の会員で出発した本体組織は、逐年増加の一途をたどり、十年後の昭和四十年には、都道府県支部四十六個、職域支部二個、青少年部支部四十三個、婦人部支部三十五個、総会員数四十二万六千九百九十名に達した。
この間、三十六年四月連盟事務所は銀座桜田ビルより目黒区三田の防衛庁技術研究本部第一研究所内に移転、さらに三十九年六月には今日の新宿区若葉に移り、連盟中枢事務の不動の本拠となった(事務所取得の経緯は個人所有住宅の譲渡受けとの説あるもの委細不明)。
注(※)国鉄支部は、新潟での国鉄労組による輸送阻止事件を契機として、国鉄は国民のものとする国鉄岩手盛岡工場内の良識派の人々が立ち上げた組織で全国九支社三千四百余名の会員からなる。
競艇支部は日米安保騒動に危機を感じた日本船舶振興協会(会長笹川良一氏 郷友連副会長)が対左翼運動で民間最大勢力をほこる郷友連の運動に共鳴したもので県競艇会を傘下に五千名。
この間、連盟の活動は、その誕生の経緯から、地方支部の自主的活動が活発をきわめ、地域の特性や事情に応じた英霊顕彰碑の建立や護国神社の再興運動が進められた他、昭和三十三年九月の狩野川台風、翌年同月の伊勢湾台風に際しては、関係支部が民防活動に立ち上り、災害の救援復旧活動に活躍、その教訓は、翌年、連盟に「防災活動基準」の制定をもたらした。
注(※)関係支部の民防活動には野村研究所(連盟顧問野村吉三郎氏、海軍大将・元外相)と共同作業所産パンフ「民防の参考」(昭三十三・三)があり、連盟の「防災活動基準」は後の法律「災害対策基本法」(昭三十六・十一)制定の誘引となった。(連盟十年史)
一方、連盟設立の本義に関わる国民運動には、中央が率先陣頭に立った。
先に見た「大東亜戦争殉国英霊顕彰慰霊祭」は昭和三十八年、多年の運動が実を結び、「全国戦没者追悼式」として政府主催による国家行事となった。
また、昭和三十一年二月十一日に始まった「紀元節奉祝国民大会」(日比谷公会堂)は紀元節復活運動として中央の恒例行事となり、同三十三年には「建国まつり」に改称、建国記念の日制定に向けた全国の国民運動の波は巨大な流れとなり、同四十二年「建国記念の日」制定を奉祝する式典として結実したが、その運動の中心には常に地方の郷友会があった。
一方、愛国運動の拡大浸透を図る立場からは、昭和三十八年四月「全国日の丸連合会」を結成、会長に元総理吉田茂氏を推戴、副会長に、岡村寧氏の後を襲って第三代会長についた後宮淳氏(元関東軍第三軍司令官)が就任し、大々的に「日の丸」運動を展開した。
第三節 発 展 (二) ―財務基盤の確立と国際活動―
昭和四十三年三月、後宮淳氏が退任し第四代会長に塩沢清宣氏(元陸軍第百十一師団長)が就任するも、翌年七月急逝、翌四十五年四月、会長代行を務めた元大本営陸軍部第二部長有末精三氏が第十五回総会で第五代会長に選出され就任した。
会勢は増大の一途たどり、昭和四十六年末に、四十五万三千名を超え、会員の会費を財源とする財務規模は支部を含めて七千万円に及んだが、納入率は五割に過ぎず十全の活動にはなお制約があった。
この様な状況のため、会費健全化の努力が払われる一方、関係者の努力によって四十五年六月、新日本製鉄社長稲山嘉寛氏を筆頭に、日本精工社長今里宏記氏、富士銀行社長岩佐凱実氏、日産自動車社長川又克二、ブリジストン社長石橋正二郎、昭和電工社長安西正夫氏の六名の財界首脳を発起人とする「郷友連盟後援会」が結成され安定した財務の後援者を得たことの意味は大きかった。
同後援会には当初わが国の代表企業二十四社が名を連ね昭和五十年には新たにおよそ四十社が加わることとなり、郷友連盟の財務基盤を確固たるものにした。
時あたかも、この年は七十年安保改定の年にあたり、翌年に沖縄復帰を抱えた騒然たる世相のなかで、連盟は新会長のもと、年次総会に引き続き、「安保推進大会」を催し、大会宣言後、街頭行進に移り、日比谷公会堂で「豊かな沖縄つくる国民会議」を開催し、反左翼運動の先頭にたった。
安保改定、沖縄返還後の四十七年五月、「自主憲法制定国民会議」に八百名が参加、四十八年年八月、北方領土返還署名運動を展開、十五万名の署名を集め「北連協」加盟団体二百万名署名の一翼を担った。
翻って、郷友連盟は殉国烈士の慰霊顕彰を原点に祖国の再建と国民精神の復興という国事に専念することもって本来の使命としたが、もとより今次大戦の惨禍は言語に絶するもので、世界では戦勝国も敗戦国も二度と戦争は起こしてならないとする風潮にあり、心情においては郷友連盟も同じであった。
欧州では千九百五十年(昭和二十五年)「戦争を戦ったもの以上に平和については力強く語りうるものはない」とのモットーの下、英米仏伊白ユーゴの六カ国の退役軍人会の代表がパリに集まり、世界歴戦者(退役軍人)連盟(World Veterans Federation)を創設した。
同WVFは国連の目的実現に寄与することを目的として活動し国連経済社会理事会の諮問に預かる第一級の非政府機関の地位を保持し、加盟国は逐年増加の傾向にあった。
わが郷友連盟は、先に加盟を果たしていた「日本傷痍軍人会」(昭和三十一年五月)の誘いで、昭和三十四年四月(第八次WVFアテネ総会)に加盟した。
これを契機に連盟は国際活動の時代を迎えることとなり、連盟と日本傷痍軍人会のWVF総会や理事会への参加の機会は増大、その活躍は昭和三十八年五月の第十次WVFコペンハーゲン総会において「原水爆禁止・軍縮」をめぐって紛糾した決議案を有末氏が仲介斡旋案をもって円満解決に導き日本の声望を高めるまでになった。
このような日本代表団の継続派遣やわが国への期待の高まりに対応するため、昭和四十年二月、政財界の支援のもと財団法人・日本WVF協会(会長賀屋興宣氏・元蔵相法相、理事長有末氏)が設立され、その成果は、昭和四十年五月スイスのローザンヌ行われた第十一次総会での有末代表の佐藤総理からのメッセージ代読と演説が反響を呼んだことや、同年十月連盟十周年記念総会に世界WVF会長ファン・ランショット氏が来日し、日本郷友連盟の活躍を称え、靖国神社、千鳥が淵を訪れ殉国の英霊に献花、内外マスコミの注目する中、翌朝、NHKテレビの番組に出演、WVFの信条とする世界平和と日本の役割について熱く語る姿が映像となって全国の茶の間に流れるという事象にも現れた。
昭和五十年八月、わが国から三十名の代表団を送った「第二次世界大戦三十周年記念」第十四次WVFシドニー総会では同氏の英語の演説が好評を博し地方紙に大々的に報じられたと記録は伝えている。(二十周年史)
第四節 試 練 ―社会の安定化と会勢の下降化―
祖国再建と国民精神の復興に身命をなげうつ連盟の組織と会勢は、拡大発展の一途をたどり、連盟の共産主義拡大阻止運動が山場をむかえた昭和四十五年、その隠然たる勢力と活動は暴徒や過激派の騒擾や破壊がもたらす社会不安のなかで大きな安定力となったが、安保問題が国民の良識で克服されると、それを境に騒然たる左右対決の社会情勢も遠のき、昭和五十年の、四十七個支部、四十五万三千九百三十二名の会員を最高に爾後、支部青年組織や職域支部の活力は萎え解散、自然消滅の運命をたどるとともに地方支部会員の疲労と老齢化も進み、会勢の下降化は自然の流れとなった。
この状況は、昭和五十二年第六代会長に就任した杉田一次氏(元陸上幕僚長)の体制下でも深刻に受けとめられ、五十三年には、異例の支部再建・会員五十万名獲得のための長期(七カ年)計画の策定(機関誌「郷友」二十四巻一号」を見る一方、毎年度、連盟の事業計画書は「組織の整備拡充」を強調し、「会員名簿の整理と報告」「会費制度の確立」に支部の奮起を促している(三十年史)。
しかしながら退勢の回復ならず、昭和六十年、支部申告の会員数は、なお四十四万三千を数えたものの、その数字には家族等の員数が含まれているものと思われ、休眠状態に陥った、三十年史掲載不能の支部は十一個支部にも及んだ。
先に見た日本WVF協会の国際活動も、日本傷痍軍人会の脱落(昭和四十四年ごろより記録なし)があり、五十年のシドニー総会を最後に、団体の参加は困難になり辛うじて連盟から参加した単独代表が友好親善の維持と現状把握するだけのもとなって、協会の存在は有名無実と化した。
しかし、これと踵を接し連盟の関心はわが国の安全保障と周辺諸国との友好関係の強化に移った。
昭和四十九年「韓国在郷軍人会」との間で日韓交流の合意が取り交わされ、同年十月、韓国「国軍記念式典」に理事等十五名を送り、翌年有末会長自ら百二名の代表団を率いて参加したのをはじめ、両国との関係は、第六代会長杉田一次氏をへて、第七代会長広瀬栄一氏(元北部方面総監)にも引き継がれ、同五十三年十月に日韓親善大会を開催、五十六、五十九両年には広瀬氏を団長とする参観団が同上記念式典に参加した。
アジア重視の姿勢は昭和五十四年九月に「日華韓三国相互親善、相互交流発展を図り、東亜の安全保障と共存共栄に寄与する」ことを目的として中華民国の「退除官兵補導委員会」を加えた「東亜安保同志会」の発足をもたらした。
本会は、情勢の変化と内部協力団体の事情により、自然消滅の運命を辿ることになったが、後の海外研修旅行の定番コースとして残った。
一方、連盟の事業は、安保克服後の五十年代に入り、本然の英霊の顕彰、伝統美風の継承を重視しつつも、努力の重点はソ連のアフガン侵攻に始まる新たな極東情勢の展開により次第にわが国の安全保障に重点を移すこととなった。
特に、千九百八十年代の重大な時局に対するわが国の態勢は低調であるとして連盟の決起を自らに促し、参与会を活用して世論の喚起に寄与させるとともに、北方領土返還要求運動連絡協議会の幹事団体の立場に絡めて北海道防衛態勢強化について、数次にわたり行った為政当局に対する要請は連盟最大の事業の観を呈した。
また、一般青壮年者の啓蒙のために、六十二年二月開設した第一回月例「防衛講座」は、後に連盟直轄郷友会に発展した。
それに先立ち、連盟は、四十周年を期に、組織の存続と後世代の活動後拠として、昭和六十、六十一年の両年にわたり全国規模の寄付目標額五億の募金活動にあたり、およそ一億一千万円を調達、郷友基金を設立した。
第五節 再 生 ―活性化の試みと新しい連盟像の模索―
昭和六十三年五月、会勢回復努力の途上、第七代会長広瀬栄一氏が逝去、翌平成元年三月、会長代行の田中耕二氏に代わって元参議院議員堀江正夫氏(元西部方面総監)が第八代会長に就任した。
連盟は平成の清新の気みなぎるなか、「組織会勢の活性拡大化」と「国家安全保障体制の刷新」に取り組み、同年六月、議員懇談会の定例化をはじめ、新防衛トップセミナーや講演会を事業化、参与会に安全保障研究会を設置して新機軸を打ち出す一方、郷友基金の有効活用によりこれらを地方に拡大、支部組織の活性化と会勢拡大を図り、平成二年十月には、連盟創立三十五周年記念大会を開催するに至った。
また同時に安全保障研究会の成果をもとに政府与党に行った「今後の安全保障・防衛政策」に関する提言は、爾後の「政策提言」活動の範例となり、新しい国際活動の試みとして、平成三年六月の中華民国に続き、同四年五月実施した中国研修旅行は爾後、年次海外研修旅行の原型となった。
一方、平成二年二月、皇紀二千六百五十年奉祝式典、同年十一月今上陛下御即位奉祝パレード提灯行列参加は連盟の歴史伝統尊重の精華を示すものであったが、平成四年四月の有末、引き続く同五年四月の杉田の両名誉会長の死はそれらとともに連盟四十年の歴史を飾った輝かしい一時代の終焉を意味するものともなった。
連盟はこれを期に、平成六年、連盟創設以来、会員の心と行動の規範であった「連盟の理念(実践信条および同解説、昭和三十七年三月制定)」を新しい時代に合わせる狙いから、その精神は生かしながらも「理念」の文言と「解説」を外して項目列記に修文した簡潔な「連盟目的達成のための実践信条」を新たに制定した。
平成七年十月連盟は四十周年を迎えたのを期に、記念募金の余裕の中から、靖国神社に奉納金、「昭和御聖徳をつたえつぐ会」に協賛金をそれぞれ謹呈、また翌年四月には連盟会長堀江氏が「英霊にこたえる会」の会長に推戴されるなど、依然としてわが国の国民運動における連盟への期待は大きく、この時より開始した「祝日法案改正署名運動請願書」は平成九年四月、六十三万二千二百六十七名に及んだ。
さらに同年十月、先の参与会の中の安全保障研究会を「郷友総合研究所」に格上げ、同研究所は広範な連盟活動の理論的研究に従事する一方、月例「安全保障フォーラム」を開催して成果の発表や時局講演会の設営を行うこととなった。
このような努力の結果、これまでの休眠状態にあった支部に再生の兆しが見え、平成七年には六個支部の復活をみたが、会勢の回復までには至らず、逆にその会員数は平成二年三十五万九千名、同七年には二十三万五千名と半減、同十二年には四万九千名にまで激減、その流れはとどまるところ知らない勢いとなった。
この間、連盟にとっては皮肉にも、平成に入って訪れたバブルの崩壊とその後遺症により、わが国の経済は展望が見えず、業界を襲った総会屋スキャンダルの余波は後援企業(協賛会員)の会費減額や脱退等もたらし、連盟の財政事情は急激に悪化、会勢の衰退とあわせこの惨状を放置すれば、連盟の将来は予想すべくもなかった。
連盟はこの事態に事業費の見直しや事務専従職員の減員、事務費、会議費の削減等で対処しつつ、平成十年、基本問題検討員会を設置、数次にわたる検討の結果、郷友基金をもとに再建を図ることとし、翌年から「再建事業五カ年計画」に着手するに決した。
このような状況下、平成九年六月、老朽化した事務所に改修の必要が生じ大修理をおこなった。
平成十一年五月、連盟の活性化に新風を送り込んだ堀江会長が退任、連盟再建事業は第九代会長に就任した元統合幕僚会議議長寺島泰三氏に引き継がれることとなった。
再建事業は、旧来の連盟を支えてきた会員の急速な退場にともない中核となる新たな人材の発掘と、自然消滅状態にある支部の復活、なかでも基金に手をつけざるを得ない状況に立ち至った連盟本部の財務基盤の建て直しは火急の課題となった。
連盟創設以来、叫ばれてきた本来あるべき会員会費制度の確立は、もはや猶予ならず、背水の陣で支部の奮起を促す一方、新会長自ら率先して後援企業の再興と新規開拓を図ることとなった。
一方で、月刊「郷友」の編集に改善を加え、新たに季刊誌「誇りある日本の再生」と、研究事業成果の年刊「日本の平和と安全」を創刊、本部にインターネットのホームページを開設、連盟の魅力化と事務所の近代化を図った効果も相乗し、四万台に落ち込んだ会員数は連盟再建事業最終年度の平成十五年には五万台を回復し、北海道の四個支部体制化、沖縄支部の新編ほか直轄郷友会の東京支部編入、三個休眠支部の復活等で、会勢の減少傾向に歯止めが掛かり、微かながら曙光を見出したものの、その前途は楽観を許さない状況にある。
この様な再建努力の一方、連盟は従来の安全保障や国民運動のテーマに加え、マスコミの誤報や政府要人の軽率な発言に端を発し外国から理不尽な対日非難や内政干渉を招いている「歴史教科書」、「慰安婦」、「靖国参拝」にまつわる新たな問題に深い憂慮の念を持っており、平成十二年八月北方領土日露平和条約緊急提言、同十一月、「防衛庁の省昇格」を五十万名の署名をもって関係団体と国会請願、同十三年九月米中枢同時多発テロ対策自衛隊派遣を緊急提言、十四年七月 国立追悼施設に反対する決起集会参加、同十一月愛媛県教科書採択問題に署名、十五年三月多様な脅威および要求にこたえる施設の推進について提言、十六年三月近隣諸国の干渉から教科書を守る運動署名一万名達成した。
この間、全国に参加者を募る海外研修旅行は、従来の韓国、中華民国(台湾)中国に加え、嘗ての激戦地や旧日本軍に由緒深い東南アジア諸国(タイ、シンガポール、インドネシア、ミャンマー、マレイシア、ベトナム、カンボジア、フィリッピン)や西太平洋(パプアニューギニア)、さらに、広く見聞を求めて欧州、米国、極東ロシアに拡がった(平成八年から同十七年)。
なかでも、平成十年年二月、日印友好五十周年に因んで計画したインド旅行は、インドの英雄スバース・チャンドラ・ボース率いたインド国民軍(INA)の生存者との交歓叶い、印麺国境で花開いた日印両軍の友情と協力が回顧され、両国の殉国烈士への供養となり実りの多いものとなった。
翻ってここに、連盟の歩んだ五十星霜を顧みれば、連盟創設に結集した人々によって点された尊い理念と情熱の灯火は一日として消えることなく今日なお輝いていると胸を張って言うことが出来よう。
今日わが国は、世界に冠たる経済大国の地位を享受し、自主憲法制定の機運はかってないほどの高まりを見せている。
屈辱の戦後体制と幻想の平和国家日本との決別も最早夢ではなくなる日がやがてやって来るだろう。
平成十七年二月十一日、建国記念の日、政府はそれが定着したとの理由でその奉祝行事から手を引くこととなった。
もし、此処に、祖国の再建と日本精神の復興を悲願に不屈の戦いを演じた先達たちが居合わせたとしたら、その人々の目にこの変化はどのように映るだろうか。
後者の変化に戸惑いを覚えつつも、その光景には感慨一入のものがあるのではあるまいか。
今日なおわが国には反日的言辞や活動を専業とする学者、マスコミ、市民グループ勢力があるとはいえ、連盟が自ら担った世直し運動の歴史的な役割は、ある意味では十分に果たしたものと言っても過言ではないだろう。
もし今日なお、連盟が新しい役割を自らに課すとすれば、それは、先に見たように外国の理不尽な非難と干渉を招く亡国の自虐的言論風潮を圧倒する、愛国自尊のための不断の戦いと、自衛隊の健全な国軍化である。しかしながら、戦いは、国内だけではない。
再建の厳しい現状に加え、友好親善の細い一本の糸でつながっている国際活動の場で、「戦時慰安婦に対する謝罪・補償・責任者処罰」を要求する対日非難勧告決議案(平成九年十一月 WVFソウル総会 )が罷り通り、「戦時日本軍によって強制労働を強いられた米軍捕慮に対する謝罪・補償」要求決議案(平成十二年十二月 WVFパリ総会)があらわれる現状を虚心に受け止めれば、被告席に立たされる代表を送る以外に手立てのない連盟の前途に、往時の夢を描くことはもはや虚しいことと言わなければならない。
連盟は平成十六年三月、連盟創設以来の「○○支部」の名称を支部好みの通称名「○○郷友会』に改めた。
それは連盟が虚飾をすて現実を直視したことの証であり、自己再生を賭けた固い決意の表明でもある。
連盟再生の道は、往時の夢を決然として断ち、自らの能力を謙虚に見つめ、新しい連盟像を求めて、文字通り新しく生まれ変わる以外にないことを連盟五十年の歴史は訓えている。
連盟がその五十年の栄光を永遠に歴史に刻むことができるかどうか、それは連盟自身の手に握られている。(了)
第六節 継 承(一) 時代の流れに応じた活動継続と新たな試練
「日本郷友連盟」は、昭和五十(一九七五)年の四十七支部、会員四十五万三千九百三十二名を最高に、その後、支部青年組織や職域支部の活力は次第に衰え、解散、自然消滅するとともに、会員の高齢化も進み、会勢の下降は自然の流れとなっていった。
継続して会勢回復の努力は続けられたが、平成に入ると減勢は加速し、平成七(一九九五)年には二十三万五千名と最盛期から半減し、同十二(二〇〇〇)年には四万九千名にまで激減した。
平成十(一九九八)年、第八代堀江会長のもとで「再建事業五カ年計画」が策定された。翌平成十一(一九九九)年、堀江会長が退任し、寺島第九代会長がその計画を引き継いだ。その結果、平成十五(二〇〇三)年には五万人台に回復し、北海道四支部体制化、沖縄支部の新編、直轄郷友会の東京支部編入、六休眠支部の復活等により、会勢の減少傾向に歯止めがかかったかに見えた。
しかし、隆盛期を支えた会員の高齢化はいかんともしがたく、減勢の自然の流れには逆らえず、平成十七(二〇〇五)年には公称約五万名、実活動会員は二万名を切っていると思われる状況に至った。
こうしたなか、地方においては、活発に活動している郷友会、若返りを果たし新たな体制で活動の継続を企図する郷友会、再生・復活の兆候など、会勢を増す新たな動きも見られた。これらの動きの中には、従来の旧軍人及び自衛官主体に加えて、それらの経験のない会員が増加する兆しも窺えたが、連盟全体としての減勢傾向を変えることはできなかった。
戦後六十年を経て、兵役経験者のほとんどが八十歳を越え、世の中の第一線の場から去り、郷友連盟の活動の場にも兵役経験者の姿をほとんど見ることができなくなった。
こうしたなかで、先達が築いてきた連盟の理念を掲げ、活動を継承していくため、主要な財源となっていた「郷友誌」の販売収益及び賛助会費収入の維持・拡大に努めた。
一方、日本が世界有数の経済大国となり、国民生活も豊かになったこの時期に、荒廃した戦後日本の再生を掲げて立ち上がった諸先輩の役割に続く、郷友連盟の新たな役割が模索された。その答えは、平成十八(二〇〇六)年九月に誕生した第一次安倍晋三内閣が掲げた「戦後レジームからの脱却」に見いだすことができた。
具体的には、戦後の軍事占領下において、GHQ起草の草案を基に作られた憲法を改め、「自主憲法制定」を目指し、「自衛隊の国軍化」の達成に向かって活動することであった。また、義務教育における歴史教育を見直し、国民の間に残る「自虐的な歴史観を払拭する」ことであった。
このため、「郷友誌」の継続発行及び内容の充実、講演会「郷友安保フォーラム」の継続開催に尽力するとともに、郷友総合研究所の調査研究・政策提言活動の活性化が図られた。
郷友総合研究所の研究成果は、防衛省、文科省、関係国会議員への政策提言活動、市販本の発行、ホームページへの掲載などに活用され、「郷友誌」の発行、講演会「郷友安保フォーラム」とともに、郷友連盟の存在を世に示す一筋の灯明となった。
しかし、そうした郷友連盟内の組織としての総合研究所の活動も、平成二十年代半ばまでであった。総合研究所の国防研究委員会は、平成二十七(二〇一五)年に郷友連盟から離れ、民間企業に席を置く「安全保障戦略研究センター」としての活動に移り、令和元(二〇一九)年には一般社団法人「安全保障戦略研究所」として独立し、令和八(二〇二六)年現在も活動を続けている。
総合研究所の盛衰にかかわらず、「郷友誌」の発行や講演会の開催は続けられたが、購読者や聴講者は少しずつ減少していった。雑誌販売を主とする事業収益が減るなか、諸経費の節約に努めながら、従来からの事業は継続された。
また、この時期、連盟活動の活性化を図るため、他団体との共同事業も検討された。その成果として、隊友会、自衛隊家族会(当時父兄会)と協力し、平成十八(二〇〇六)年から「防衛トップセミナー」(令和二(二〇二〇)年以降は、隊友会主催、郷友連盟等協賛の「中央防衛セミナー」)を、また平成二十(二〇〇八)年から「三団体共催賀詞交歓会」を毎年開催することとなった。
こうした中で、平成二十三(二〇一一)年に東日本大震災が発生した。連盟は、自衛隊の災害派遣部隊に対し、厳しい財政事情のなかから三十万円を捻出し、現地郷友会を通じて慰問品を贈り激励した。
一方、その大災害の影響は、連盟活動の中枢である新宿区若葉の事務所にも及んだ。昭和三十九(一九六四)年に購入した古い木造建築の事務所は何とか持ちこたえ、外見上は被害を免れたが、崖上にある事務所の建屋を支えている古い石垣にわずかなズレが見られた。
万一崖が崩れた場合には、崖に張り出すように建っている連盟事務所が落下し、崖下の民家に甚大な被害を与えることは明白であった。このことに危機感を持ち、事務所不動産の売却が検討され、大手不動産会社に見積りを依頼したところ、崖上地を更地にする経費は、震災後に下がった不動産評価額の範囲内で賄いきれないおそれがあり、売却価格を見積もることは不可能とのことであった。
しかし、建屋ごと購入する意思を示した隣家の主人に売却することとなり、平成二十六(二〇一四)年、総会決議を経て売却した。売却に際し、連盟が事務所として使用していた一階部分を、周辺の貸事務所賃貸料の半額で五年間使用できる賃貸借契約を締結し、従前の活動を継続した。
事務所の問題に加え、平成二十(二〇〇八)年に公益法人制度改革関連三法(法人法、認定法、整備法)が施行されたことにより、法人としての連盟に大きな転機が訪れた。
新法の施行により、従来の社団法人は、五年間の猶予期間内に新法に基づく一般社団法人又は公益社団法人に移行するか、保有財産を法に定められた方法(国への寄付等)で処分して解散するかの選択を迫られた。
連盟は、一般社団法人に移行することとし、内閣府公益認定等委員会の認可を得て、平成二十四(二〇一二)年四月一日付で所轄(新宿)法務局への設立登記を完了し、「一般社団法人日本郷友連盟」として活動を開始した。
この移行に際し、連盟は、現状の財務状況、会員数の把握状況等を勘案し、従来の組織・体制を大きく変更した。連盟本部体制の縮小とともに、連盟本部と県郷友会との関係を、本部・支部の関係から対等な連携関係に変更し、相互に協力し合って活動を展開していくこととした。
この結果、移行直前の公称会員数四万九千名(推定活動会員数一万人以下)は、正会員二百四十八名(推定活動会員数約六千名)となったが、従前の事業は続けられた。
一般社団法人移行から三年後の平成二十七(二〇一五)年、戦後七十周年、連盟創設六十周年を迎えた。創設五十周年までのような大々的な記念行事等を実施する余裕はなかったが、ジャーナリスト井上和彦氏、参議院議員宇都隆史氏、衆議院議員長島昭久氏、防衛大学校教授神谷万丈氏を招き、「今後の我が国の安全保障戦略」をメインテーマとした「戦後七十周年記念安保フォーラム」を開催した。
聴講者は、久しぶりに百名に迫る数であった。これは、民主党政権下にあった平成二十四(二〇一二)年に安倍晋三元総理を講師に招いて開催した「百回記念安保フォーラム」に次ぐ数であったが、その後の連盟全体の活性化には繋がらなかった。
第七節 継 承(二) 未来を担う新世代への希望
平成二十四(二〇一二)年の一般社団法人への移行に際し、連盟本部機能は縮小された。その後も活動経費の節約に努めたものの、会勢及び財務の改善は見られなかった。
そうしたなかにあっても、「郷友誌」の発行、講演会「安保フォーラム」の開催、ブロック研修会の実施、英霊顕彰行事の実施・参加、国会議員等に対する政策提言等の事業は継続された。
一方、長年にわたり継続されてきた女性部研修会(女性部を有する県郷友会の持ち回りにより隔年開催)は、平成二十八(二〇一六)年に千葉県郷友会の担当により成田において開催されて以降、県郷友会の中で研修会を担当できる女性部がなくなったことから、中止となった。
各県郷友会の中には、独自の活動を継続し、会勢を維持・拡大しているところも散見されたが、全般的には会勢の衰えを感じざるを得ない状況となっていた。
このような状況を踏まえ、平成二十六(二〇一四)年から二年間をかけて、「連盟の将来構想」の検討が行われた。連盟の役割、財政見積等、様々な角度から検討が重ねられたが、最終的には、財源維持の重要な手段でもある「郷友誌」の発行を続けることが最小限必要であるとの認識で一致した。これにより、「郷友誌」を発行しつつ、「財政事情が許す限り存続を追求」し、努めて従来の事業を継続することとなった。
令和二(二〇二〇)年一月、新宿区若葉の事務所の安価借入期間が終了したことに伴い、借料のより安価な新宿区片町のマンション「壁装館」の一室へ事務所を移転した。この際、二名いた職員を一名とし、経費の削減を図った。こうした措置により、経常収支の赤字幅は縮小したものの、会費収入及び事業収益の減収を補うまでには至らなかった。
事務所移転後は、さらなる経費節約のため、WEBミーティング方式による会議の実施によって交通費を削減し、またEメールを多用して郵送費を減らすなど、経費の節約に努めた。
新事務所で業務を開始して間もなく、新型コロナウイルスによるパンデミックが発生した。各種事業は相次いで中止または延期となり、常勤の役員・職員の行動にも影響が及んだ。反面、事業の中止により予定されていた支出が抑えられ、赤字幅はやや縮小した。しかし、コロナ下においても事務所を維持し、雑誌の発行等は継続していたため、財務状況の悪化は続いた。
政府のまん延防止等重点措置が解除された令和四(二〇二二)年三月以降、諸行事はコロナ前に準じて行われるようになり、定時総会やブロック研修会も再開された。再開に当たっては、ブロック研修会への本部役員の派遣旅費や、定時総会への地方からの参加者に対する旅費支給等を見直し、支出の節減を図った。
令和五(二〇二三)年の定時総会において、旧兵役関係者の多くが去り、会勢、財務ともに悪化する試練の時代に、四半世紀もの長きにわたり連盟会員の先頭に立ち続けられた寺島泰三会長が、九十歳を機に会長職を辞任し、森勉会長が就任した。新会長の下、連盟の将来構想検討における「財政事情が許す限り活動を継続する」との結論に従い、最後まで活動を継続する決意を新たにした。
憲法改正、自衛隊の国軍化、陛下の靖國神社御親拝は、未だ実現していない。とはいえ、連盟が自ら担ってきた世直し運動の歴史的な役割は、ある意味では十分に果たしたものと言っても過言ではないであろう。
今日、各国が自国の利益を前面に出す混沌とした世界情勢の中で、和を尊び、人と人との関係、家族愛を大切にする日本人の気質は、今後ますます重要な役割を果たすのではなかろうか。スポーツ、芸術・芸能、文化、学問・技術など、幅広い分野で世界的に活躍する若者たちをはじめ、日本の未来を託すことのできる若者は、確実に育っている。
令和五(二〇二三)年度末における日本郷友連盟の保有財産の残額は、残務整理及び事務所閉鎖に必要な経費を差し引くと、あと一年の活動が限界となる額であった。これを受け、令和六(二〇二四)年度の定時総会において、「今年度末をもって事業を終了し、解散準備に入る」ことが決議された。
令和六(二〇二四)年度は、ブロック研修会の中止、安保フォーラムの回数の減少など、従来の事業を縮小しながら、解散準備が淡々と進められた。
一年後の令和七(二〇二五)年五月十五日の定時総会に合わせて、「日本郷友連盟解散の決議」が行われた。これにより、全国の郷友同志の中核として活動してきた「日本郷友連盟」の七十年間の歩みに幕が下ろされ、今後は各地域の特性に応じた郷友活動へと移行することとなった。
第八節 継 承(三) 新たな出発
令和七年、全国組織としての一般社団法人日本郷友連盟は解散した。しかしながら、各都道府県郷友会等の多くは、それぞれの地域の特性に応じた活動を継続しつつ、先達が掲げた「日本郷友連盟」の理念を継承し、その名称を後世に残したいとの強い思いを持ち続けている。
そうした思いを受け、令和八(二〇二六)年四月、京都府郷友会を中心とする有志により、全国の同志が相互に連絡を取り合い、交流を深める場として、「一般社団法人日本郷友連盟」が新たに再出発することとなった。
新たな一般社団法人日本郷友連盟は、全国各地において、それぞれの地域の実情に即した活動を続ける、国を愛する有志の心のつながりの場を築きたいとの強い思いから立ち上げられたものである。
